「電動ピエロとテレビジョンの幼少期」(学報に寄稿したエッセイ)

yut-iida2009-01-14


昨年12月発行の『福山大学 学報』(118号)に、短いエッセイを寄稿。

   http://www.fukuyama-u.ac.jp/news/2008/pdf/118.pdf

以前このブログで少しだけ触れたが、尾道市議の山中善和さん(中国放送 元アナウンサー)が所有されているドイツ製の電動ピエロ人形の話。

大学のウェブサイトにPDFで公開されているけれど、紙幅の都合で脱稿直前にかなり削ってしまったので、いちばん長かったころの原稿を以下に掲載。

電動ピエロとテレビジョンの幼少期


先日、久しぶりに尾道を訪れたことがきっかけで、とても珍しい電動ピエロ人形の存在を知った。中国放送の元アナウンサーである山中善和さん(現在は尾道市議)が所有しているもので、1936年にドイツで生まれたこの人形を、その当時、山中さんのお父上が取り寄せたのだという。顔を左右に動かし、まばたきもするほか、台座のところが精巧な機械仕掛けの紙芝居になっていて、両手が上下して看板を出し入れする。紙芝居はライトで照らされ、まるで映画のようだ。時代背景を踏まえると、この人形の幼少期は興味深い。1936年のドイツといえば、ヒトラー政権下でベルリン・オリンピックが開催され、機械式のテレビジョンによる実況中継が試験的におこなわれた年である。紙芝居の部分は当初、ショールなどの洋品を宣伝したモダンな広告だったが、40年には日独伊三国軍事同盟の宣伝に変わったという。山中さんは幼いころ、きっとこういうものが「テレビジョン」なのだろうと思ったらしい。

日本でテレビの定時放送が始まり、街頭テレビが人気を博すのは1953年のことだ。しかし当時でさえ、人の集まるところに受像機を置き、その映像を公開するという発想じたいは、決して目新しいものではなかった。ラジオの全国放送網が成立する1928年ごろから、実用化を目指して開発が進められていたテレビジョン受像機が、実に多様なやり方で、繰り返し一般に公開されていたからである。30年代なかばまでは、大学野球の試合を博覧会場に実況中継するといったモダンな試みがなされていたが、戦争の足音が近づくにつれて、内閣情報部の時局講演や国民歌謡(軍歌)が実験放送で流されるなど、国策宣伝の道具として活用されるようになった。国威を発揚するための科学的見世物として、台湾や樺太といった植民地にまで受像機が動員されたこともある。

そうした経緯は今日ほとんど伝えられておらず、私はこれまで数年をかけて資料を掘り起こしてきた。尾道で出会ったピエロ人形の幼少期は、私が解明してきたテレビジョンの戦争体験と重なりあうことに、不思議な感慨を覚えたのだった。

今後の私の課題は、地方の視点からテレビの歴史を編みなおすことだ。放送が始まった当初、全国どこにでも街頭テレビが存在していたわけではなく、誰もが路上で力道山のプロレスに熱狂したわけでもない。実のところ、地方における受像機の普及の仕方は、体系的にまとまってはいないのである。さいわい私は今年、「テレビ受像機の民俗学 ―備後地方における放送文化の保存と発展に向けて」と題した研究活動によって、公益信託高橋信三記念放送文化振興基金を受賞することができた。地域社会と関わりながら調査を進め、その成果は追って公開していきたい。